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中島公園deエッセイsay!
![]() 2007年11月21日北海道新聞 |
←左は11月21日の北海道新聞です。 ホントに怖いですね。とても他人事とは思えません。 この記事に押されて 「オフィス」と言えばマイクロソフトのソフトウエアを思い浮かべるかも知れません。 しかし、ここで言 うオフィスは、私が働くべき事務所のことです。 家の中でノラリクラリとQPの攻撃をかわすのにも限界があります。 そこで、作戦を外に向けて展開することにしました。必勝を期して命名した作戦名は… …「オペレーション・幻のオフィス」です。
「早まっちゃあいけないよ。なが年連れ添った仲だらう」 「いいんです。9時から5時まで。 週休三日制。 年次休暇は50日ですから」 「なんだい、そりゃ?」
しかし、ホントに働いてしまったら、退職した意味がありません。 やはり、ここでも創意と工夫が必要です。 続きを読む → 中島公園deエッセイsay! 戻る |
在職中は私は仕事、QPは家事。 明確な分業が成り立っていた。 誰がいつ決めたか知らないが、そうなっていた。
待ちに待った定年退職がやって来た「ハッピーリタイアメント、さあ!のんびるするぞ!」と喜び勇んだのは、つかの間。厳しい現実が待っていた。
予期に反して、なんだかんだと居心地が悪い。 しばらくすると自分の立場に気付いて愕然とした。 我家はいつの間にかQPの支配下にあり、私の立場は何も知らない新入社員の様なものになっていた。
しかし、こんなことで負けてはいられない「家でノンビリ」は長年の憧れ。どうしても譲れない一線だ。 創意と工夫で、この難局を打開しようと決心した。
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5年前の自分は、今の私とは違います。ですから、5年前の私も「想い出の人」かも知れません。
シニアネットのお陰で豊かで愉しいシニアライフを送っています。この喜びを友人にも、お裾分けしてやろうと思い、入会を勧めたら「仕事でもないのに人の中に入って気を使うのはゴメンだね」と断られてしまいました。
「おやっ?どこかで聞いたようなことを」と思ったら、5年ほど前の、私自身のセリフではないですか。
その頃は、せっかく仕事を止めたのだから家でノンビリ暮らそうと思っていたのです。しかし、そうは問屋が卸しませんでした。
1年もしない内に邪魔にされ、QPに無理やり「老人福祉センター」に連れて行かれました。
「あんたは、何処に行っても三日坊主だね。今度は易しいところにしたから、1年間は止めたらダメだよ」と言い渡されました。
今度こそは押し込んでやろうというQPの意気込みに、押されるようにして入ったのが「やさしい英会話」教室でした。
これが残りの人生を変えることになろうとは、夢にも思いませんでした。
「やさしい」とうたっているだけあって、ちょこっと行った川柳・ヨガ・手話に比べて、確かに易しいと思いました。 しかし、ここでも私はお客さんです。教室の片隅で暗い顔してじっと座っているだけでした。
人並みに横のオジサンに話しかけたりするのですが、「旅行しない・山登れない、カラオケ・釣り・パークゴルフ・囲碁将棋出来ない」ことが分かると、それ以上話が続かないのです。
9ヶ月目にやっと話し相手に恵まれました。 たまたま横に座ったAさんが話しかけてくれたのです。
「いつも一人で寂しそうだから、声をかけて上げたのよ」と恩着せがましいのですが、大勢の中で一人ダンマリも、楽じゃないので有難いことでした。
これがきっかけで皆さんとも打ち解けるようになり、1年後にはハワイ旅行にも参加しました。 そして、これが生涯一番の楽しい想い出になったのです。
人慣れしてくると、長年趣味としてやってきたパソコンのグループにも入りたくなりました。 そうして入ったのが、現在所属しているシニアネットです。
最初はパソコンの勉強をしようと意気込んでいたのですが、生まれつき緻密なことと、素早い処理は苦手です。
3年間試行錯誤した末、ついにパソコンの勉強は諦めてしまいました。およそ半年前のことです。
* * * * * *
* * *
「最近、ますます楽しそうじゃあないか」と先輩会員Bさん。
「はい、パソコンの勉強やめました」
「勉強やめたら、そんないに楽しいかい」
「ノロマですからパソコンは苦手です。もう限界ですね。 その代わり、サロンの受付とか、お掃除サポーター始めましたよ。 鴨々川清掃にはアウクルの一員として参加します」
「勉強しなけりゃ、ホームページ良くならないよ」
「どなたか代わりにやってくれるといいのですが...」
「そんなわけにはいかないだろう」
「そうでしょうね。これだけは自分でバンバンします。 ところで、私もシニアネットのホームページに、エッセイを載せてもらえるようになったんですよ」
「ほ〜ぉ、大喜びしてるね。張り切りすぎて変なこと書かないでくれよ。公式ページなんだから」
「変なことって何でしょうか」
「分からんのかい。あの、さぶいジョークだよ」
「どこが さぶいか言って下さい!」
「嫌だね。猫の首に鈴をつけるようなことは」
「猫って、私のことですか?」
「...........」
「大丈夫ですよ。ノロマですから。まだ、ネズミ獲ったことありません」 戻る
札幌シニアネット文化祭 ←中島公園ご近所の催し、10月3日・4日 アウクル体育館(旧豊水小学校)

およそ6年前、現住所に転居したころは体調が最悪でした。 とにかくあちこち痛い。整形外科に行っても埒が明かないので、マッサージ治療を受けることにしました。
担当のマッサージ師は目の不自由な若い女性で、S先生と呼ばれていました。 マッサージの腕は確かですが、とにかく よく喋り よく笑います。 「暗いね〜。あんた暗いね〜」と言いながら笑うのです。
S先生はマッサージをしながら、耳だけを傾けてくれそうな気がして、とても話しやすいのです。 それに、私のことを水も滴るいい男と思ってくれるかも知れません。 なんたって、頭と顔のマッサージはないのですから。
目が不自由な先生から「暗いね〜」と言われては、立場がありませんが、どんな風に言われるか、例を挙げてみましょう。
「喧嘩したのね。 それで、どうしたの?」とS先生。
「自分の部屋に入って鍵をかけたんです」と私。
「QPさんから逃げたわけね」
「QPは攻めて来たりしません。 ただ、中で何をやっているのか見られたくなかったのです」
「見られたくないって、何をさ?」と問われ、ちょっと答えを躊躇しました。 患者は私一人ですが、院長先生も、受付もいます。 彼らには聞かれたくないのです。 それで、小さな声でボゾボソと答えると。
「えっえ〜!パソコンでQPさんの悪口書いているって〜! あんた暗いね〜。ホントに暗いね〜。アッハッ、ハッ、ハ〜」
どこの世界でも意見の対立はあるものですが、順序立てて説明し、二三の裏づけになる証明をすれば、少なくとも、そのことについては納得してくれるものです。
たいていの場合は「君の言うことは分かる。しかし、......」ということになるのです。
しかし、QPの場合は全く違います。「それは違う。 悪いのはあんた」の一点張り。 何回も説明して、例を挙げて証明してみせても同じことです。
「男は外に出れば7人の敵がいる」と よく言われますが、家の中にこんな強敵がいるとは、夢にも思いませんでした。 うかつにも、退職して家にいて初めて気が付いたことです。
二人っきりの喧嘩は仲裁が入らないので、限りなく続きます。 私は「説明と証明」。 一方、QPは「あんたが悪い」の一点張り。 両者のエネルギー消費量を考えれば勝敗の帰趨は明らかです。
「苛められて悩んでいるときはパソコンに語しかけると、答えを出してくれるんですよ」と私。
「くらいね〜。パソちゃんは何て言ってたの?」
「QPは良い人だけど、相手の身になって考えることが出来ないんだ。 と言ってました」
「正直なのね」
「そういえば......、嘘つかないですよ。 約束は守るし、時間も正確。 それから......」
いつの間にかQPの良い点ばかりを話し続けていました。
「だいぶ明るくなったじゃない。 嬉しそうな顔して」
「えっ! 見えるんですか」
「見えますよ。はっきりと......。 QPさんの勝ち誇った笑顔が」 戻る
(画像のQPさんは掲載期限の3日を経過し、雲隠れしました)

<一つ前の「謎の家族」の続きです>
私が女中さんと信じていた女性達が、実は寮に泊まっている女工さんと、兄から聞かされてショックを受けたところから始まる。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
「信じられんな。食事の世話する人、風呂に入れる人、幼稚園の送り迎えしてくれる人、遊びに連れて行ってくれる人。 あれはみんな会社の女工さんのサービス残業だって?」
「ヒマそうな人を見つけては、お前のお世話を頼んでいたんだよ」
「しかし、お袋は奥様と呼ばれていたし、オレは坊ちゃんとしてチヤホヤされていたよ」
「そりゃ、よかったな。 ところで、お袋の夢を知ってるかい?」
「男の子は慶応♪ 女の子はフェリス♪ そして、上品な家庭だらう。散々聞かされたよ」
「自分の子供3人と女工さんを使って上品な家庭劇の練習をしていたんだよ」
「親父はどうした」
「出番なし。上品とはほど遠いからな。 お前は親父にそっくりと言われていたな」
「それは後の話だろう。 幼かったオレは彼女達の温かさ、優しさで救われていたような気がするんだ。 仕事でもないのに、どうしてそこまでやってくれたのか不思議だね」
「そこがお袋の上手いところさ。 あの食料難の時代に、寮の食事と宴会の料理を仕切っていた。 つまり食料を握っていたんだよ。 たいていの無理は通るものだ」
「それだけかなぁ。 ところで、その食料一体どこから持ってきたんだ。簡単には手に入らない筈だよ」
「ちょっと言いにくいんだが、親父が会社で糧食関係の仕事をしていたので、ちょと融通を利かせたん
だ」
「融通だって? それは横領じゃないか」
「早い話、そんなことだ。 天網恢恢疎にして漏らさず。ちゃんと成敗されているよ。 その後が大変だ、家はおん出されるし、食べるものも着る物もない... ...」
「おいおい、ちょっと待てよ。行き着いた先は足の踏み場のないほど狭い*バラックだ。 誰が何を話そうと、話は家中筒抜けだよ」 *焼け跡で拾った焼けトタンなどで作られた小屋
「それがどうした」
「お袋は毎日のように、戦前の豊かで優雅な暮らしぶりを話していたじゃあないか。各界の名士や海軍士官との派手な交遊についても、よく話していたな。 ダンスもしたと言ってたぞ。 兄貴だって聞いていたはずだ!」
「うん、聞こえたな。耳にたこだった」
「しがない管理人だったことを、長いことオレに秘密にしていたのは、お袋が哀れと思ったからか? それとも、一人くらい素直に聞いた方がいいと思ったからか?」
「秘密? そんなことないよ。必要もないし」
「それなら何故、何十年も黙っていたんだ!」
「聞かれなかったからなぁ。 それに...」![]()
「それに、なんだ」
「お前がお袋の話を真に受けていたとは知らなかったよ」
「オレが黙って聞いてるのを見れば、分かるはずだろう」
「分かるわけないよ。 オレだって黙って聞いていたんだから。 しょうがないよな」 戻る
東京から兄が来て、私の大切な「古き良き想い出」をぶち壊して帰って行った。
久しぶりに昔話などするからいけなかった。話している内に時代は次第に遡り、ついに戦前にまで行ってしまった。
「A市の家は大きかったな。門から玄関までが凄く遠かった。今で言う豪邸だな」と私。
「途中に大きな池のある庭があったな」兄。
「長い廊下を走って遊んで、よく叱られたものだ」
「オレは風呂で水泳の練習をしたよ」
「あの家での暮らしは唯一のいい想い出だな。 上流の暮らしもオレは5歳まで、兄貴は9歳まででおさらばだ。 戦後は貧乏のどん底へ急降下だったな」
「上流?一体どこの誰の話だ」
「もちろん、ウチの事さ。お屋敷に住んで美味いもの食って、お客さんは海軍のおエライさんや各界の名士。 お袋は奥様と呼ばれ、オレは坊ちゃんだ。 女中だっていっぱい、いたじゃあないか」
「女中......?」
しばし沈黙......。
「ああ、女工さんのことかね。 あの家は親父の勤めている会社のもので、故郷を離れて働いている女工さんの寮になっていたんだ」
「女工さん......?」
今度は、私が沈黙。
「聞いたことないぞ。 お袋がいつも『昔は何もかも女中が世話してくれて、なに不自由なく暮らしていた』と言ってたじゃないか」
「夢を見ていたのさ。 海軍のクラブもやっていたな。いわゆる宴会場だね。 お袋は寮の管理と宴会の仕事でてんてこ舞いだ。 それで女工さんをてなずけて、お前の面倒みさせていたんだよ」
何か変だ。そう言われても、にわかには信じ難い。 しかし、兄の話は辻褄が合っている。女子寮兼、宴会場として使える家なら大きくて当たり前だ。
私は三男、他に二歳上の次男もいる。 この話が事実なら、なぜ二人とも、今まで何も話してくれなかったのだろう。 何十年もたってから、突然打ち明けられても戸惑うばかりである。
(写真は、この頃より約4年前、長男5歳、次男3歳、三男の私は1歳。2年後「お屋敷」へ転居)戻る
ヤスさんと呼ばれる、やーさんみたいな友人がいました。長い付き合いですが、やはり少しは怖いのです。
相当昔のことですが、その怖さを見せ付けるような出来事がありました。混雑する地下鉄のホームでのことです。
ヤスさんは粋な男だから、割り込むような無粋な真似はご法度です。人ごみを歩くときは、「ごめんなすって」と右肩を引きながら、スイスイと通り抜けます。
しかし、大抵の場合は「お先にどうぞ」と譲ってしまうのです。これはヤスさんが粋と感じている「江戸しぐさ」と信じているからです。
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赤ちゃんを救うためのシステム「赤ちゃんポスト」が話題になっています。「子捨てを助長し、育児放棄につながる」と批判する人に伺います。
それは当の赤ちゃんの意見でしょうか。話のできない赤ちゃんに成り代わり私が申し上げます。
赤ちゃんは貴方に向ってこう訴えています。「私を捨てようとする親、ミルクをくれない親から、私を解放して下さい。
私は寝たきりの赤ちゃんです。親が改心するのを待っていたら死んでしまいます。親はなくても、私を育ててくれる人がいれば生きられるのです」
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私自身は「焼け跡生活体験者」です。戦争体験者と違ってインパクトはかなり小さいですが、それなりに特殊な経験と思っています。しかし、それは映画、テレビドラマ、小説等に正確に表現されることは、ほとんどありません。
1949年の区画整理まで、焼け跡の象徴「焼けトタンのバラック」に住んでいた人は、A市においては僅かです。ほとんどの家は1947年までに、安普請とはいえ木造の家に変わりました。
正確に言えば近所には我家同様のバラックが2、3軒ありました。しかし、住人はドロボー、オカマ、売れない俳優、年老いた売春婦等で、住所不定です。差別するわけではありませんが、住人とは言えないと思います。
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「病気と貧乏はうつるから傍によるんじゃないよ」とよく言われましたが、ホントですね。養父が肺病になり、それが兄にうつり、貧乏は家族全員にうつることになりました。病気のせいで家を建てる為の金も、食う為の金も全て失いました。
敗戦後4年目のA市は復興めざましく、新築の木造住宅街がほぼ完成しました。その中で焼けトタンのバラックは嫌でも目立ちます。今でもA市栄町に行って、当時住んでいた年寄りに聞けばこのバラックのことは覚えていると思います。 しかし、「Dの知り合いなら貸した金かえせ〜」と言われるかも知れません。聞かない方が無難でしょう。
私は「上流社会」の人が好きです。貧乏人は自分より貧乏な極貧人をバカにして苛めるのですが、良家のご子息は違います。小学3年のときですが、同級生のM君がお屋敷のような家に招待してくれました。優しそうなお母さんがお菓子を出して歓待してくれました。
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「また、名古屋の鯛めしか〜」「贅沢言うんじゃないよ、裁判官だって餓死しているんだよ!」昭和24年の我家の食卓での会話です。家の中は全国の汽車弁の空き箱でいっぱいでした。
バラック住まいとはいえ乞食ではないので「お恵みください」とは言えません。返す当てはないのですが、、一応「貸して下さい」と言います。「借りる・返さない」を繰り返しているうちに、どこからも相手にされない一家になってしまいました。
もう明日から食べる米はもちろん、芋もかぼちゃも、何もありません。「窮すれば通ず」といいますが、まさにその通りです。汽車弁の残りを食べることを思い付きました。しかし、A駅では家族6人分の弁当を確保することはできません。 弁当といっても食べ残しです。当時は弁当を残す人は非常に少ないのです。
そこで家族会議です。一家の存亡を託した会議ですから真剣です。協議の結果、場所はB駅の操車場、狙いは清掃前の客車と決定しました。
ここには全国各地から膨大な量の弁当の空き箱が集まって来ます。 「飯もおかずもいっぱい残っているぞ〜!」病床の養父から力強い助言がありました。この界隈に詳しいのは父だけです。
場所が決まれば次は人事です。運搬役は中一の兄、検査役は母と決めました。衛生には人一倍うるさい母です。検査を通れば安心して食べることが出来ます。
次男と三男たる私はカマ焚き役です。当時は機関士の助手は「カマ焚き」と呼ばれ機関士への登竜門でした。私達の憧れの的です。
経木の弁当箱だけでは燃料不足なので、「カマタキー、石炭ないぞ〜」と声がかかると「ガッテンだ」と応じ魚屋の傍にいって、空き箱を黙ってもらってきます。魚の油が沁みこんでいるので、めらめら燃えて気分がよかったです。
検査は先ず、見た目です。次は鼻で臭いをかぎ、最後にホンの少量を口に含んでみます。これで異常がなければ合格です。合格した「製品」は熱湯消毒を兼ねて蒸かします。そのとき役に立つのが弁当の空箱です。経木で出来ているので火が付き易くよく燃えます。包み紙から割り箸まで燃やせるのだから便利です。
名古屋の鯛めし以外は忘れましたが、全国津々浦々の弁当が我家の食卓に並びました。さながら、弁当品評会みたいなもので、それなりに楽しい食事でした。ただ、この宴を楽しむには一つだけ条件がありました。それは「だれにも知られない」 これが肝心です。
破綻は案外早くきました。運搬中に兄が警察に捕まりました。リュックを開けることを強引に拒んだので逮捕されたのです。中身はスカスカの残り弁当箱ですから、軽いのですがリュックの大きさが凄いのです。それでヤミ屋と疑われたのです。
交番に連れて行かれリュックは強制的に開けられました。中身を見た警官は同情し、詫びて励ましてくれたそうですが、兄の受けたショックが収まる筈がありません。警察に捕まったのが、ショックなのではなく、残飯を食べていることを知られたのがショックなのです。
兄は10歳までは豊かな家庭の坊ちゃんとして育ちました。3年後には、この落差です。兄は立ち直れなくなり、その後、病床に臥し回復するのに数年もかかりました。一家も食うに困る生活に逆戻りです。
長男はショボクレテしまっても、次男と私はまだ元気が残っていました。これも兄の汽車弁のお陰と感謝はしています。「腹減ったな、車庫をやるぞ!」と次男が言うと、私は「ガッテンだ」と応じました。 車庫というのは、近くにある路面電車庫のことです。まだ空襲で焼けた資材が利用されることもなく放置されていました。
人気のないことを確認して、二人でやっと持てる大きさの鉄棒を持ち出しました。「アカ(銅)なら金になるんだがな〜」とかボヤキながら馴染みのクズ屋に持って行くと、足元をみられてたった8円でした。甘食(小さな甘いパン)買って半分ずつ食べました。
これが最後の「悪事」です。10歳からは新聞配達のアルバイトを見つけて正当な報酬を得るようになりました。私はテレビなどで、小さな子供がくわえタバコなどをして粋がっている姿をみると何となく、いとおしく感じます。 子供が大人ぶって虚勢をはらないと生きていけない地域が、今でもあることは不幸なことです。 戻る
「身体検査はパンツ一枚と決まっているだろ。何でお前だけズボン、はいているんだ!早く脱げ!!」と先生は血相変えて怒ります。
しかし、パンツはいてないので脱げないのです。身体がガタガタ震え、大粒の涙がぽろぽろ出てきたきました。
フ○チンになるよりも、パンツ持っていないことがバレたのが、凄く恥ずかしかったのです。
何故か、ひもじかった、寒かった記憶は残らない。覚えているのは、それらに伴う屈辱感だけです。小学3年でも屈辱感は充分感じます。
戦後4年もたつと貧しいとはいえ、暮らしは落ち着いてきています。多くの人々が倹約に倹約を重ね少しずつ生活を改善していたのに、我家だけが終戦直後のままなのは、母が見栄っ張りで計画性がないからです。 戦前の豊かな生活が忘れられないのです。
近所の魚屋も何もかも空襲で焼かれ、無一文からのスタートでしたが、そのとき既に小金持ちになっていました。親父は凄く厳しく、母子5人が奴隷のように働かされていました。特に長男が悲惨でした。シンちゃんという愛称の中学3年生。気の優しい子でした。
シンちゃんは売れ残った魚をリヤカーに積んで売りに行かされますが、コースも時間もだいたい決まっていました。 坂の手前で待っていて、「押しましょうか」と声をかけると、少し笑って「うん」といいます。私の狙いは「さつま揚げ」や「はんぺん」です。そのまま食えますからね。
売れ残りですから活きも悪く「昨日買った魚が食えないから引き取れ」と要求する客もいました。シンちゃんは詫びて、黙って泣くだけで、決して魚を引き取ってお金を返したりしません。 客は諦めて、捨て台詞を残して帰りますが、シンちゃんはまだ泣いています。
そこで私の出番です。客が遠ざかったのを見定めて「バカヤロー、ションベンひっかけるぞ〜!」と聞こえないように怒鳴ります。シンちゃん、泣き止んで「食べるか」と言ってさつま揚げ一枚私にくれますが、売り物ですから自分は食べません。シンちゃんの親父はお金はあるけれど厳しいのです。
塀や壁にですが、たまには本当にひっかけます。口先だけでなく誠意を見せることが肝心です。シンちゃんがやりたくても出来ないことを、代わりにやって上げる。これが本当のサービスです。こうして私はシンちゃんの片腕となり、栄養補給に成功しました。
30年後、シンちゃんの家を見に行くと5階建てのビルになっていました。シンちゃんも当時のことを思い出さないはずはありません。私のことも覚えていると思います。「頭でっかちの可愛いやつだったな、まだ、生きているかな?」 多分この世にはいないと思っているでしょう。生きているなら会いに来ると思っているはずです。
幼少の頃「くれ」とか「ちょうだい」とか言った記憶はありません。意識したわけではなく、そうゆう言葉が口から出なかっただけです。「ちょうだい」とか言えるようになったのは大人になり生活が安定してからです。 戻る
なかぱ公園でほとんど毎日、鴨の観察をしています。冗談半分とは思いますが、鴨番記者と呼ばれて、悪い気はしませんでした。しかし、そんな気分に水を差すような出来事がありました。
私の気持ちは鴨の番記者ですから、誰にだって気軽に声をかけます。「オナガカモ見ませんでしたか〜」と池の鴨に向って、餌をまいている女性にたずねました。「つがいでいましたよ〜」と答えてくれたので、これは凄いと、ビックリしました。
かなりの野鳥通と思ったのです。なかぱ公園のマガモの群れの中で、雄はともかく、オナガカモの雌を見分けるのは容易なことではありません。
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行きがかり上、一人で薄野のスナックに行って、「自分がカモか」確かめることになりました。
「美人の鴨ママさんはどうだった?」友人は聞いた。
「それがね〜......。行ったけど、閉まっていたんだ.........」
「それでいいんだ。それは賢い」閉店がなぜ賢いのか、話が全然かみ合わない。
ママさんに初めて声をかけたのは7月下旬のことです。4番目に現れた、母子鴨の追跡中でした。
続きを読む → 中島公園deエッセイsay! 戻る「わたくし、カモ博士と言われてますの」
「なかぱ公園カモ番記者です。1月の鴨の水辺危機の際には多少なりとも、お役にたったのではないかと自負しています」
「あれは、わたくしが、お電話差し上げたので鴨ちゃんが助かったのよ」
薄野の西にある「小さなスナック」での会見は、見栄の張り合いで始まりました。
「初めて会ったとき、私のこと怖いと思わなかった? 私も怖いのよ。ナンパする人いるんだから」
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最近少し忙しかったです。「鴨々川導水管布設工事」のためです。監督でも作業員でもありませんが、工事現場付近の住民としてチョッと忙しかったですね。
鴨々川は池が凍結して住めなくなった鴨たちの冬の生息場所です。そこで川底をひっくり返しての大工事です。鴨たちは行き場を失い、腹を空かして右往左往していました。
みかねて、口の聞けない鴨たちに成り代わり、市に陳情に行ってきました。「報道によると鴨の生息環境を壊さぬよう注意したい」と話しているが、「具体的にどんな点を注意をしているのか!」と詰め寄ると、担当者は「資料をとって来ます」と言って、座を外しました。

帰ってくるなりテーブルに資料を広げ、説明を始めました。「鴨は冬になると水場を求め・・・、うんぬん。導水管はそこを避けてうんぬん・・・・」
おや?このマップ?? どこかで見たことが? なんと、ビックリ! 私が作って「中島パフェ」にアップしたカモマップではないですか。嘘みたいですが、ホントの話です。
思わず「これは私が・・・」と言いかけましたが、止めました。 それを言ったらカモマップの値打ちが下がるような気がしたのです。 説明が終わると「これ、頂いてよろしいでしょうか?」と下手に出て、「札幌市公認」となったカモマップを大事に持ち帰りました。戻る
なかぱ公園ガイド「中島パフェ」札幌